エイガ通信 Vol.3「映画★音楽」特集

鈴木治行(「映像音楽論」担当講師)

自分の本業は作曲家であり、ここでは普段大学ではあまり触れない音楽活動について書く。音楽活動を大きく分けると、現代音楽のフィールドでの活動とその他、という分け方ができそうだ。現代音楽においては、作曲作品がコンサートで演奏されたりCDになったり放送されたりする。最近でいうと、1月にピアノの新作が瀬川裕美子さんのリサイタルで初演されたり、2月には室内楽の個展が開かれたりした。今後の予定としては、4月に京都でオーケストラの新作が初演される。自分の作曲の中にはいくつもの方向性があるが、大まかにいうと、自分が絶えず考えているのは、音響を作るというよりむしろ、時間体験を作るということ。そのためには「記憶」が重要なキーワードになってくる。ここであまり立ち入って書く余裕はないが、例えば時間軸の上に離れた2つの点が穿たれたとしよう。体験は、その2つの点の関係性において発生する。人は複数の事象と事象の間に何らかの関連性を見出さずにはいられない生き物で、これは美術においても同様だろう。そうした関連性の糸を編むことでいわば記憶を彫刻する。現代音楽の外では、他ジャンルとのコラボレーションが多い。最近では12月に実験アニメ作家の黒坂圭太氏とのコラボを行ったし、3月現在、音楽を担当した『おだやかな革命』というドキュメンタリー映画が公開されており、3月末から『アニマを撃て!』という劇映画の公開も始まる。そうしたコラボにおいても、関係性を編む、という考えは器楽と同じだが、そこでの関係性が、音と音だけでなく、イメージと音の関係性であるところが純粋な器楽の作曲とは違うところだろう。文章だけではイメージしにくいだろうから、いつか是非実際に体験してみていただきたいと思う。

個展での演奏風景
ゆらめくかたち展:黒坂圭太氏(アニメーション作家)とのライブ風景

本多樹(学部3年生)

“冬の女の子はあったか屋さん”というバンドで私は歌だけ歌う。ドラムギターベースは男。

メンバーがおのおのの楽器を準備しているなか自分の両手を持て余しスタジオを出て喫煙所で火をつける。一本終わる頃にはだいたい準備は終わっていて私は何度か咳払いをし水を飲み携帯で時間を確認してそこではじめてマイクを持つ。

小宮山菜子(2017年度卒業生)

学校に行けなくなって、なんとなく弾き始めた兄のギター。
おとなしいと言われるのが悔しくて、ギターを持つと強くなれた気がしていました。

外と関われなかった自分にとって、音楽は私を守ってくれるもので、時には武器みたいなものでした。顔も知らない誰かが必死でつくったものに、救われてきたのだと思います。大学で一緒に映画をつくってきた友達の作品で、初めて人目に触れる曲をつくりました。音楽も映画も、自分を守るものから人と暮らすためのものに変わってきた気がしています。

映画は音楽に敵わないのかもしれない。それでも映画をつくりたい。映画は人をみつめることができる唯一のものだと思うからです。救うとか救わないとか、そんな大それたことじゃなくて、映画も音楽もつくることの先で、他者と暮らすことにつながりつづけていたいです。

卒業ライブ風景
CS祭ライブ風景

鈴木晴揮(学部3年生)

僕の中で音楽と映画は考え方としてはほとんど同じで、一つの物語を90分に消化するのか3分に消化するのか、みたいな感じなんですよね。結局伝えたいことはどの作品でも変わらなくて、作風はもちろん違うんですけど、言ってることは全部同じなんだと思うんです。まあ音楽の方がちょっと難しいんですけどね。解釈がたくさんできるので。映画ってそれこそお話なので、受動的にこっちが座って見てるだけでも向こうからやってきてくれる気がするんですよ。でも音楽って、伝えようって気持ちよりもアイデンティティの誇示っていうか、作詞者のめちゃくちゃ個人的なことを言葉に代えて訴えてる感じがあって、真意って最後まで分からなかったりするんですよね。能動的に理解しに行かなきゃいけない感じ。でもそこがやっぱり面白くて。バンドのすごいところって、ライブでその人を見てると唐突に歌詞の意味が全部分かっちゃう瞬間があったりするんです。あ!そういうことだったんだ!って。歌詞が英語でも同じことが起きたり、もっと言うと歌詞がない音楽でも不思議と感じられる時があって。作品として残すことは当たり前としてあるんですけど、同じ場所でリアルタイムでバンドの思想みたいなものを感覚的に体感した時ってほんとにすごいんですよ。だから僕にとってバンドがそこで演奏していることが一つの映画のような感覚なんです。

僕は中学生で音楽に触れてからずっとパンクロックが好きなんですけど、今やっているTomato Ketchup Boysというバンドでは、サウンドとしてのパンクってことよりも、もっとその先に行きたくて。僕の中で消化したパンクを、僕自身の音で形とか全く気にせず出せたら最高だなって思ってます。それは別に新しいジャンルを作るとかそういうことではなくて、チープな音でもローファイでも、僕っていう個人がいたりTomato Ketchup Boysっていう少年の像みたいなものが作れたらなって感じなんです。そこらへんの作り方というか、僕の中の音楽に対する考え方はなんだか映画的だなって思うんですよね。

Tomato Ketchup Boys 『I’m a Boy』CDジャケット
「Ghost」MV より

かまきりとくま(2016年度卒業生)

A8Chang(以下A) まずは僕らがどういう人物なのか説明しがてら話を進めていこうと思うのですが、ざ っくり言うと僕らって日本?世界?ではじめて卒業課題にラップのライブをした学生だっ たのかなとか思うんですよね。 (振り返ると、こんな突拍子もないことによく先生方はゴーサインをだしてくれたなぁと も思うわけですが、、、笑)

K86(以下K) 今していることといえば、バイトして奨学金返したりしながら制作してっていうのが正しい回答になるかもしれないです。卒業制作の延長線上でひたすら作品を作り続けてます。 

A そうですね、在学中は毎日のように顔を合わせていたから適当に気の向くまま制作をしてたのでいろんなことに手を出してました。その一環で三味線を弾ける後輩とコラボを していたりとかっていうこともしてるわけですが。 

K そもそも俺ら大学から知り合って、学科にサークル、帰り道までも、一緒の生活だったから自然とお互いの得意不得意なことも含めて共有しつつ学んでいったというか、まぁ いろんな経験させてもらいました。 

A そこから話し始めたらノスタルジーになるそうだからやめとこう。でも、その日々の生活が、自分たちの制作の一番の根幹の部分なのかなとかおもいます。 

K ヒップホップ精神というかB-boyイズムがスーッと身についたというか。

A うん。だから最近になってようやく三味線とコラボして音楽をやる意味が言語化でき たというか。ヒップホップのカルチャーでいう場所性というかジャーナリスティックな側 面。民謡という、ある土地で受け継がれていた人々の生活の声とか背景が音楽になって、 それも日本語になって伝わる、伝えるっていう表現に非常に魅かれてる。 やっぱり自分と 向き合って自分語りをするのも大事だけど、社会と接続して他者語りをするんだなとかし みじみと思います。そのため、いまは個人で己を磨く時間に割いてはいたけど外に出て誰かに会って話すことが多いです。

K そう、それでたまにパワーが欲しくなったら集まって楽しむというか。 

A みんなで音囲んで作るのは独りでやってるときの数倍は楽しいもんね。あれを今度は映画で再表現できればなとか思います。これを言うとあまり納得いく顔をされないのです が、僕は音楽をつくってる最中でも映画を作ってる感覚を意識しながら制作してます。と いうのも、僕らが撮る映画って適当にカメラをまわしはじめることからはじまることが多 いので脚本とか絵コンテは書かないんです。僕は致命的で、絵もかけないし脚本をかいてても気づいたら小説になってしまうんです。 そのかわりに、リリック(歌詞)を書いて曲を 作り、ラップしてMVを撮るような感覚で映画を撮ってる。 

K だから、セリフとかもそのときのリアルな言葉が即興で出ると言うか、それもまたヒップホップでいうフリースタイル感覚だったりで楽しいんですよね。 

A 文字に起こせるんだったらなんでも映画になるんじゃないかとか、現代口語演劇が成り立つのならこういうのもアリだろみたいな若気の至りみたいな勢いもありましたね。もちろん今でも勢いを失ってるわけではないですよ!

K そうだね、だからありきたりなストーリーものも好きだけどそれじゃあもう興奮しにくいというか、リアルは小説よりも奇なりってところですかね。だから、結果的に生身の身体をつかって映画の中から飛び出すパフォーマンスみたいなこともしたのかな。 

A うん。いまは、それらをきちんと自分たちのモノにするために日々これ精進って感じで制作しています。こんな感じで大丈夫ですかね?

日常の制作風景
卒業制作展でのパフォーマンス風景

安野太郎(「サウンドアート」担当講師)

僕はここ5年くらい「ゾンビ音楽」と名付けた作品シリーズに取り組んでいます。これは自作の自動演奏機械でリコーダーを演奏する音楽です。リコーダーへ空気を送るためにはエアーコンプレッサーやふいご等を使います。この音楽は地球上に存在する伝統的な音階(ドレミとか)や音組織は聴こえてきません。音楽を伝統的な枠組みを超えて考えてみた結果、人間の身体による演奏から、機械の身体による演奏にいきついてしまいました。ゾンビ音楽はリコーダーの8つの穴を8ビットの数列に見立て、その数列のパターンを構成することを作曲と呼んで音楽を作っています。数列のパターンを操作して音楽をすることは、人間の身体よりも機械の身体の方が得意なはずなので、機械の身体にいきついたわけです。楽器演奏をする伝統的な身体という枠組みを、機械の枠組みに置き換えて実践してみたわけです。全てを機械の枠組みに置き換えたわけではなく、楽器そのものやその音という人間の伝統はかろうじて残っています。こうやってかろうじて残っている人間の枠組みを指して「ゾンビ」と名付けているのです。

「ゾンビ音楽」の試みは最初はたった一台のリコーダーによるものから始まりました。続いて、2台、4台(カルテット編成)、リコーダーからワンランク上の楽器にも挑戦(フルート、クラリネット、サックス)しました。掃除機ロボットのルンバを使って、自走しながら演奏する試みもあります。それまでに作った全ての楽器を使った舞台作品(ゾンビオペラ)にも挑戦しました。その頃にはリコーダーの機械は12台で、ルンバは8台など、どんどん大規模になっていきました。こうなるともうゾンビ音楽ではなく『大ゾンビ音楽』と呼ぶようになりました。12台のリコーダーに一気に空気を供給する為に制作した高さ4m幅2m奥行2mの装置を備えるゾンビ音楽です。最新作は、2017年に制作した『大霊廟I』と『大霊廟II』です。『大霊廟 I』は展示形式の音楽作品です。14の機械(リコーダー12+ヴォイス2)にはそれぞれ専用のアルゴリズムによるプログラムが埋め込まれてあり半永久的に音楽を奏でます。『大霊廟II』は、4人の人間が人力で足踏みふいごを踏みながら、大ゾンビ音楽システムが音楽を奏でる演奏会形式(パフォーマンス)の作品です。僕は最初からこんな大ごとになることは全く予想していませんでした。ゾンビ音楽をはじめた当初は、ただ聴いたことがないものを聴いてみたいという、素朴な、作家ならば誰でも抱くような創作欲によって日々ゾンビ音楽を作っていたのですが、そのうちその欲望の出どころは本当に自分から出てきてるのか疑うようになりました。僕の欲望を実現するための機械だったゾンビ達ですが、いまや僕がゾンビの欲望を実現するために働いているのではないだろうかと思うようになりました。これは人類とテクノロジーとの関係性にも言えるのではないかと考えています。人類は世界を治めるためにテクノロジーに依存した社会システムを生み出しましたたが、いつしか人類はそのシステムを維持する為にあくせく働いているのではないでしょうか?テクノロジーは、人類の欲望を実現する装置だったのかも知れませんが、今では人類の欲望を生成し増幅する装置としてあるのではないでしょうか?こんな感じで「ゾンビ音楽」は我々の欲望のあり方を問いかける作品になりました。最近は自分や人類の欲望のあり方にあまり悲観的にならずに、それでも我々は生きていかなければならないし、欲望こそ生きる力の源であるという面は否定できないので、欲望のあり方とうまく付き合いながら、徐々に機械の音楽から、人間の音楽を制作することにシフトしはじめています。

そんな中、「大霊廟I」と「大霊廟II」は第21回文化庁メディア芸術祭のアート部門で審査委員会推薦作品に選ばれました。ゾンビ音楽を初めた当初だったらとてもうれしくてしょうがない出来事なのですが、やはり今は欲深い自分がいて、これぐらいではあまり喜べなくなってきました(それでもやはりちょっと嬉しいです)。これからも欲望という業を背負って生きなくてはならないのだなぁと半ばあきらめながら、それでもポジティブに生きていかねばなぁと思っています。

ルンバ + ゾンビ
『大霊廟II』(2017) Bank Art Kawamata Hall  / 撮影:後藤悠也(造形大4年)
写真上:ゾンビ音楽カルテット(2016)Asia Art Center (韓国:光州)  
写真下:カルテット(2013)自宅にて